話が分かるとか分からないとか

講演を聴くというのはその話に耳を傾けたということで、正解があるテストを受けに行ったのではなく、話が分かったか分からなかったかは見当違いな質問に思える。

話が分かる分からないは、話をするというものすべからくに当て嵌るものではないと思うのだ。

 

逐次的に情報を処理するだけのスタンスの問いは、何故か不快感がある。